陳情の先を行く部屋

基本的に二次創作を公開しているブログです。楽しく読んでいただければ幸いです。

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プロローグ ―――ハロー・ワールド

推奨BGM:Unus Mundus




 ―――君は、来世があったとしたら一体どうする?

 君は自分の前世の知識を総動員して周りの改革に励む? もしくは新たな知識を求めて更に貪欲に勉強するか? はたまた体を鍛え過去には出来なかったことを成そうとするか? 幻想でも妄想でも夢想だとしても、一度は誰だって"もし"と願ったことがあるはずである。だが、それは完全に想像の産物であることを忘れてはいけない。幻想も妄想も夢想も、それは全て"想"うことから来る事象だということを絶対に忘れてはならない。だから、それは想いであって絶対的な現実でありえることではないのだ。


 故に、事実とは小説より奇であることが起きる。

 さて、ここで再び先ほど考えた事に関して、もう一度よく考え直してみよう。改革に励む? それは本当に可能か? そんな知識を"都合よく"保持している人間”なのか? そんな記憶を役立てられる段階まで覚えていられるか? 新たな知識を求めて勉学に励むか? なるほど、それは確かに一番現実的だろうが、人間の脳は無限に知識をつめ込められるように見えて、実際はそこまで万能ではなく、個人の資質に左右される。故に、一部の"マゾ"と言ってもいい人間でなければ決して天才といえる境地にまではたどり着けない。ならば体を鍛えるか? これも現実的な線だろうが、やはりこれも個人の資質に左右される。人間は基本的に全力を出せないように出来ている。それはリミッターであり自身の体を保護するためでもあり、滅多に外れるものでもない。

 突き詰めて言えば、現実とは現実であり幻想は幻想である。妙な考えを持つことを人間は諦める

 結局のところ今まで運動が好きじゃなかった人間が、運動に適した環境、才能を得たとしても、すぐに体を鍛えて育て上げるなんて可能性はほぼ皆無に近い。そこには体を動かすための重要なファクター、"モチベーション"と言うモノが大いに欠けている。人それぞれによってそのモチベーションは大いに変わるだろう。なら、ここで言える"逸脱者"達のモチベーションとは一体なんなのだろう。次の死への恐怖? 退屈しのぎ? もしくは何らかの使命感?

 その全てが、どこか偽りに見えるのは何故だろうか。

 こういう考えは何度も何度も繰り返してきた。前読んだことのある小説では主人公が困難を乗り越え、大魔王を倒してお姫様を救い出し、そして最後は結婚する。それはとても陳腐でよく語り継がれる話ではあるが、それだけにその物語の主人公には恐れ入る。それは何もわからない状況を自らの力で進み、切り開き、そして明日を望む渇望のようだ。だが、生憎と自分は違った。そう、自分はそういうのとは違ったのだろう、と判断する。

 何せ、自分が真っ先に演じたのは"凡才"であり感じたのは”既知”だったのだから。

 自分は必要以上に知識を集めることに対する必要性を感じなかった。

 自分には平均以上に体を鍛える趣味も無かった。

 自分の知識や知恵では世界へと干渉するだけの力はなかった。

 ここで”前世”の過去を思い出すのでアレば、すこしだけ裕福な中流階層に生まれ、前世という確かめる事のできない不確かな記憶を持って生まれた。自分と言う存在はただそれだけであった。確かに二流大学に入学、二年間通い、そこそこ他人と交流してた"自分"と言う存在はいもしたが、それでもそれだけの短い生で得られるものは本当に少ない。

 つまり、非常に認めたくない事実ではあるが、"自分"は一度死んで、"俺"と言う来世へと移ったのだ。

 今ならある程度仏教の教義も信じれるし、少しだけ目に見えぬ神様とやらを信じてもいいかもしれないとは思う。

 ちなみにその際に一番最初に思ったのは実は自分は救世主だったとかの厨二的患いではなく、大学の寮でルームシェアをしていたイギリス人の友人に百ドルほど金を貸していたがまだ返してもらって無かったとか、この輪廻転生の際の記憶があれば本にするかレポートにするかで金になったのではないかと意外と自分でも冷静だった。

 結局のところ、前世でも来世でも人は劇薬でもなければ中々変わる事は出来ない、ということは理解できた。凡庸な人間が非凡を得たとしても、それがよほどの事でなければ人は変わる事ができない。納得のできる事だ。

 幼児の時の記憶はまるで早送りのように進み、考えるていることとは違い体が勝手に動くために、
そこまで羞恥や苦労はなかった。本当に大変だったのが幼稚園デビューをしてからだった。この時の自分は何を隠そう若干戸惑っており、この異常事態に関して非常に思うところが色々あった。未来へのプランが色々と浮かび上がっては消えていった。だが結局のところ、自分は幼稚園へと最初の一歩を踏み入れた時からなんとなくその道を選んでしまった。

 それとは即ち、地味に生きることであった。

 よくよく考えてみれば社会とは異物を排除したがり、出る杭は打たれると言う言葉さえ存在する。ここで無駄に知識を回したりして暴れまわれば被害は確実に自分と、そして親へと回ってくる。そういう考えもあったが、やはり自分は結局のところ、"静かに暮らしたい"と言う願いがあることに気がついた。そう、一度目の人生が途中で終わってしまったので。予期せぬところで強くてコンティニューな権利を貰ったのであれば、今度こそ出来なかったことを完遂して見せようと、目標を持ってからの自分の行動は驚くほどスマートだったと自画自賛してみる。

 まず最初に必要以上に喋る事をやめた。これは会話から自分の知性のレベルを周りと比較されないためだ。私は貝になるとかなどと偶に馬鹿なことを考えつつ適度に口数を減らして、周りに合わせたりした結果、色々と大変だと思われた幼稚園児としてのデビューはそれなりに上手く行った。周りの評価からすれば"口数の少ない頭のいい子"と、概ね好感触な様子であった。ただ頭がいいという評価は平凡に生きたい自分としてはちょっとアウトコースな評価なため、小学校はもう少し自重しようと思った。

 小学校も幼稚園の時と変わらず、口数を減らして偶にわざとらしく間違えたりすることでなんとか狙ったとおりになってきた。一時は最近の小学生は進んでるな、と、感心している場合もあったが、話は小学校を卒業し中学校へ入った、そのときから変わってくる。小学校や幼稚園ではかなりの恥ずかしさがあったが、それでも小さい頃の記憶と言うものは本当に曖昧であり、それを全て覚えていることは珍しい。だからこそ中学へ入学を果たしてから、

 やることすべてが"既にやった"こととしか感じられず、激しくイラだった。

 既知感、デジャヴともいえるその感覚は消して間違ってないと、冷静に感じていた。なぜなら中学からは自立的な考えが生まれ、記憶なども働き始めてくれるために、昔やっていた行動をなぞる様でひどく退屈に思えてきたのだ。入学式も、クラス分けも、授業も、テストも、友人との語り合いも、それがひどくどこか色褪せたように感じられ始めた。授業についてゆくのもほどほど手を抜くのにもなれた。スポーツや部活にも手を出してみるが、やはり退屈に感じられる。

 既知感が、前世でやったことのあることが、現世に少なからず影響を与えているのだ。

 ここで、記憶の中でしか確かめる事のできない前世の自分がどんな人間であったかを軽く説明しよう。生まれも育ちも中流階層、純粋な日本人で、生まれた年は一九九〇年。そのまま裕福とも貧乏とも言えない家庭に育ち、一般人並には勉強し、スポーツは水泳をやっていた。親が国際化する社会に先んじてインターナショナルスクールに通わせてくれたおかげで英語はペラペラといえる程度には自信があり、実際英語の成績は悪くないものだったと記憶している。そんなわけで小中高と、それなりにインターナショナルな感じで過ごし、高校卒業後はすぐに大学へと進学。点数は悪くなかったため、二流の大学にはある程度の奨学金とともに入学できた。おかげで親にかける迷惑は最小限で済ませたと思っている。入学した大学は海外にもキャンパスを持つ大学で、成績さえよければ海外のキャンパスにも移れる、そんな大学だった。特に目指すべき夢もなく、大学で出来た友人たちと酒を飲んだりタバコを吸ったりとそこそこ悪い事をした記憶もあるが、そこまで荒れていたわけでもなく、やはり平和にすごしていた。本当に平和で平凡な生活だった。

 気づけば今の生活と殆ど変わらない。


                           ◆


                         既知感だ。

 人生とは未知を既知へと塗り替える作業である。

 私はそう信じている。

 つまり未知で溢れているからこそ人は人足りえている。満ちている。人でいられる。ではそこに未知を感じなく既知感しか感じられない生物が居たとして、それはなんと呼べる?

 確実に人間ではないのだろう。

 既知、既知、既知。

 素晴らしくも忌々しい既知感(ゲットー)。

 それは万年を生き抜いた神にすら死をもたらす毒。見る事の全てが既知であるという事は死体であることに等しい。故にその者は生まれている時点で既に間違いなのだろう。何故ならば既知の世界とは人の生の終着点であり到達点であるからだ。

 全てを知る。成程、それは人間の欲求の一つでもあり理想の形の一つだろう。だがそれの真実を知る人間から言わせて見れば醜悪の一言に尽きる。死でしかあふれない世界は見ているだけで苦しい。だからこそ求める。

 未知を。

 理解している。そこに未知がないことなど理解しているのだ。しかしそれを求めずにはいられないのだよ。既知の中にも未知はある。そう信じなければ生けてはいけないのだよ。

 既知の中にも恋をした既知がある。それがなければ到底生きられまい。


                           ◆


 焦った。酷く焦った。自分の静かに、そして楽しく暮らしたいという願いは変わらない。だが、その中にもう一つ願いが増える。それは即ち今の現状には満足してても、満足し切れてない自分がいるということだ。そしてその願いは簡単であり、もっと刺激が欲しい。前世より楽しく、まだ感じたことのない楽しみを、未知を味わいたい。そう思ってしまった。

 だから探した。やってないことは何かと、再び前世と今世でやってきたことを考え、そして検討した。何をしてきたか、何をしなかったか、何をやりたかったか。

 その結果、自分は誘蛾灯に誘われるように異常発達した科学の産物―――ネットゲームに惹かれた。

 最初はゲームやライトノベル、そういったサブカルチャーには全くと言うほどに手を出していなかったが、全ての始まりは”とある”友人と共に刺激を求めて様々な物に手を出し始めた頃、進めもあって手を出してみると、少しと言うより結構な驚きがあった。

 自分の生まれた年は二〇〇二年、前世より十二年も遅く生まれたが、この時点で自分の知っている前世とはわずかばかり差異があった。

 小学校に入学してまず気にしたのは世界の歴史。それは自分の知っている事と概ねあっていた、いくつかの差異を除けば。だが、一番の違いは科学力だった。特に脳や神経に関する技術は優れており、その影響が身近なところにも現れていた。たとえば自分の前世、二〇一〇年ではまだまだ見ることのなかったホログラム。それが既に商業用にショウウィンドウでは使用されてたりと、"少し"だけ進んだ科学技術の結果が目に見えていた。

 もちろん、それはネットゲームにも現れていた。

 初めはあまり興味のなかったネットゲームではあるが、その時主流であったVR(ヴァーチャルリアリティ)ゲームをプレイしたときは純粋に驚いた。PCのスクリーンの中で見ている光景がバイザーを通して物凄くリアルに感じられた。なるほど、これはハマるのも仕方がないと、そう自分に納得させながらハマった。それこそ馬鹿の一つ覚えのようにもう一つの世界に。成績を落とさないように気をつけながら遊んだ。それはまじめに生きてきた自分にとっては、まさに未知の刺激だった。新しい世界のようだった。インターネットで新しいVRゲームを見つけては、それを試しに遊んでみたり、多くのβテストに参加したりと、完全にネットゲームのオタクと化していた。今では気に入ったネットゲームではそれなりに有名だったりする。


                           ◆


 果たしてそれは真に未知であるか。諸君はそれを悩んだ事があるだろうか。

 未知だと思ってやったことがどれもが全て既知、既知、既知。これほどに空しいことはないだろう。何せそれには呆れや怒りさえも沸いて来ない。なぜならばそれもまた既知。ありとあらゆる感情、行動、結果、その全てが既知であると言うのならば全ての行動に意味はなく、全ての行動は決定されている事に等しい。

 これ程までにおぞましい事はないだろう。だからこそ―――まだ未知と感じられる事に救いはある。


                           ◆


 表では平凡を装い、ゲームの中では思いっきり”ガワ”を捨てて、違う世界を楽しむ。

 そんな裏表の激しい生活を続けて数年、親元を離れ、いわゆる廃スペックPCなどを揃えて学生寮で好きに暮らしている時に、世界に激震が走る。それは新たなゲームの革命、

 ―――二〇一九年、NERDLESで動く初のゲームが登場した。

 NERDLES。直接神経結合環境システム(Nerv Direct Linkage Environment System)を略しNERDLES。それはつまり神経を直接システムへと繋げ、神経の動きを察知したシステムが、仮想現実の中で"現実と同じ動き"を再現する、つまりヴァーチャルリアリティの中に自分自身がダイブできるようになったのだ。

 それはゲーマー全員の夢の完成形であった。

 当初でたNERDLESは業務用、冷蔵庫サイズのもので、全国5箇所のアミューズメントやリラクゼーション施設、そういった場所にしか存在せず、それでいて一プレイ三千円と凄まじい金額が必要であったが、それでも遊ぼうとする人が続出し、長蛇の列は途切れる事無く続いた。自分が初めてNERDLESを使ったときの感動は、初めてVRゲームを遊んだ時を思い出させた。いや、それすら超えていたと言ってもいい。魂が震えたとさえも言っていい。まさに新時代の幕開けだと、胸を張って言える。

 今この瞬間、歴史が変わるのに立ち会うのと同時に、この未知に輝き続けたいと願った。

 そこからNERDLESが更に小型化し、民生用になるまでには更に数年かかった。

 思えばその時、記憶にある自分が死んでしまった年は過ぎてしまった。しかし、世界はまったく違うのだな、と改めて思う。そう思いつつも、高校を卒業して許されていたモラトリアムが終了してしまった自分には直視しなければならない現実が待っている。高校の最後は遊び呆けていたために大学受験に失敗した今、再び大学合格を目指して勉強だけに集中するべきなのだろう。だが大学の受験勉強を片手間に友人のツテで少し刺激的なアルバイトをしながらゲームをする生活が長くなってきた。周りはハマリっぷりに呆れる事もあったが、”先輩”も”バカ”も、そして”アホ”とも良好な関係が続いていた。

 そんな生活が続き、二〇二二年五月

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To:syas_2nd@xxxxxx.co.jp
From:Argus_Mail_Service@xxxxxx.co.jp
Title:おめでとうございます!クローズドβテスト当選のお知らせです!

最上明広様へ、

 おめでとうございます。此度当社アーガスの送る最新のMMORPG、
ソードアート・オンラインのクローズドβテストへの、参加資格の当選をお知らせいたします。
当社のソードアート・オンラインは民生化された小型NERDLES、
ナーヴギアを使用した初のVRMMORPGでございます。当方は―――


 ―――それは、未知世界へのチケットであった。
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| 断頭の剣鬼 | 11:43 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT

水銀汚染…!
なろうに掲載していたときと違うところが結構あって、なろうにあった一話を思い出しながら、比較して読むのも楽しかったです。
すーいぎーん。

| 藤野祐介 | 2012/07/22 11:55 | URL |















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